京都の原型・平安京からの街づくりの歴史を学ぶ

建礼門と紫宸殿
京都御所 建礼門と紫宸殿

 

街並みづくりの上で、その街の歴史を知ることはとても重要です。
大名が治めていた土地は城下町ができ、その外郭に農村がある、という構造がほとんどだと思いますが、京都はそうはいきません。

現在の京都の町構造の原型は平安京と言うのは周知の事実ですが、なぜこうなったのか?

京都の今にも通じる歴史を見ていきたいと思います。

 


 ★CONTENTS★

 ◇平城京からの遷都

 ◇平安京の街づくり

 ◇平安京の衰退と街の変化

 ◇暮らしの変化に伴う街づくり

 ◇現在の五条通は計画的変遷

 ◇まとめ

 

平城京からの遷都

平城宮を築いた人びと
奈良市教育委員会/第10回平城京展「平城京を築いた人びと」資料より

 

奈良時代、現在の奈良県にあった平城京は、794年に現在の京都市に位置する平安京に遷都し、その年以降から1185年の鎌倉幕府成立までの数百年間を、現代の私達は平安時代と呼んでいます。

 しかし実は、平安京遷都の前に聖武天皇が遷都した場所は他に3か所もあります。

740年の恭仁京(くにきょう・木津川市)、7442月の難波京(なにわきょう・大阪市中央区)、74411月の紫香楽宮(しがらきのみや・滋賀県甲賀市)と点々とした後平城京へ戻り、その後即位間もない桓武天皇が784年の長岡京に遷都しました。

平城京はなぜこれほどまでに遷都されたのでしょうか?

 

恭仁宮跡
史跡 恭仁宮(くにきゅう)跡
出典:史跡 恭仁宮跡WEBサイト

恭仁京(くにきょう)遷都前の平城京では、地震や天然痘の大流行で政治を担っていた藤原家の四兄弟が亡くなったり、帰国した遣唐使の登用を不満に思った藤原一族の一人が氾濫を起こしたりと、不穏な時勢で政治が不安定になっていました。

 そのため聖武天皇は状況を変えるため、各地への行幸や遷都を繰り返したようです。昔は元号を変えるのも明治以降から現代のように即位のタイミングではなく、疫病の流行や飢饉、天変地異などから一新するために行われたりし、天皇が何かを変えることで改善を図る文化があったのです。

 

平安京の街づくり

平安京をGoogleマップに重ねる
平安京配置図on Googleマップ
出典:歴史雑談録 WEBサイト

平安京は中国の都城を参考に、都市計画を練った上で造られました。ただし、中国の都市造りはまず城壁から建設するそうですが平安京では城壁を造らず、道づくりから始められました。

日本の都市の歴史において「建設」は、道づくりを計画し建設することを指してきました。平安京も道を造ることから始められています。

 

平安京の都市計画は、「延喜式」と言う10世紀の書物に全体像が記録されているそうです。

大路・小路で区画を分け、それらの街区が都市を形成するよう計画されています。横長の区画「条」と南北に延びる区画「坊」で都市をつくる「条坊制」と言う都市計画です。現在でも横長の区画は一条~十条まで、平安京の頃とは多少位置などが変わってはいてもしっかり健在ですね。

 

朱雀大路南
朱雀大路南
朱雀大路北
朱雀大路北

 

さて、現在の千本通りが平安京の内裏(天皇が住み,儀式や執務などを行う宮殿)や太極殿(朝廷の正殿)があった中枢区画から羅城門(現在の千本九条)まで延びる正面道路「朱雀大路」です。ただし、千本通りの道幅は当時の朱雀大路の半分弱ほどだそうです。

 

朱雀大路を挟んで東側を「左京」西側を「右京」とし、「坊」はそれぞれ朱雀大路から離れる方向へ向かって四坊まで区画されました。そして一つの「坊」を縦横3本の小路で区切り16区画にし、その区画を「町」としました。「町」は千本通り側の北角区画から南への数え順で116町まで番号を振り、どの区画かを伝えるときには例えば「左京三条四坊二町」のように表示されました。これも現在も住所表記が近いですし、待ち合わせの際などは似た伝え方をしますよね。

右京の坊 
右京のひとつの坊
出典:京都市WEBサイト 都市史 03 条坊制

 

「左京、右京って反対じゃないか」とよく言われます。地図を見るとそう見えますが、実際は内裏から南を向いて(つまり天皇の御座所から)左が左京(東)右が右京(西)なのです。

 

京域(平安京の範囲)を決めた方法は、四神にあやかり東の鴨川を「青龍」、西の山陰道を「白虎」、北の船岡山を「玄武」、南の巨椋池(おぐらいけ)を「朱雀」になぞらえたと言われています。

ですが既存の道を基準に京域を決定した藤原京や平城京ほど明確ではなく、諸条件を勘案して決められたようです。

 

先の都であった長岡京は洪水など水害の難が多く、平安京では仏法の思想を取り入れ「東寺」と「西寺」を建設しました。しかし「西寺」は、平安京の南西部の衰退(水が多く建設も中途半端、人が離れたと思われる)と共に消えゆきました。

 

平安京の衰退と街の変化

内裏平面図
内裏平面図
出典:京都市WEBサイト 文化史 07 だ入りから京都御所へ

平安京では960年に天皇の住居「内裏」が焼失し、その後幾度も火災を繰り返しました。そして12274月の焼失を最後に内裏は廃絶。これにより天皇は現在の京都御所(土御門東洞院殿つちみかどひがしのとういんどの)へ移動しました。

 内裏の廃絶、天皇の御座所移動と共に現在の京都御所が発展していき、南北朝時代の光厳天皇が居所として以降に定着。1392年の南北朝統一によって皇居と定まったのです。そして元の内裏があった場所は荒廃の一途をたどりました。現在の内裏跡は石碑が設置されているのみです。

 

未完成の平安南部、東西端
平安京:東西の万部は未完成だった

更に平安京は、東南端・西南端共に中途半端に道の建設を中断しています。つまり未完成の都だったのです。道路管理も当然国家の仕事のはずです。しかし朱雀大路だけは国が管理していたようですがそれ以外は放置されたため、結果的にその道の前に住む住民が道の掃除などの管理をするようになりました。すると管理している人が必要に感じない道、つまり通行量が少ない道は宅地や畑になっていったのです。

現代の京都でも家の前の道は住民が掃除を行うのが慣例ですが、これはこの時代の慣例が染みついて続いているのです。

 

暮らしの変化に伴う街づくり

東寺
東寺:現在でも毎月21日に「弘法市」が開かれ、大変な活気である

平安京では「東市」「西市」と言う官営の市がありました。開催日程や売り物なども決められ、東西の市が交互に行われたいたようです。また市が行われる町の住民は、道・溝や中を流れる堀川の維持管理費として地代を徴収されていました。掃除も自分でしているのに地代を徴収されるとは、納得いかなかったでしょうね。

 平安京の流通経済を担っていた東西市でしたが、西市から次第に東市も廃れ街区内に市場ができるようになりました。道に商店が張り出してくるような状況だったようです。

東寺の弘法市が今でも毎月21日に催されていますが、こんな賑わいが平安時代にもあったのかもしれません。

 

このように、街が自然に変化していくことを「住みこなし型街づくり」と言うそうです。

 

道で市が開かれるようになり、道には屋根だけの小さな小屋が建てられ商人が木箱の上に商品を並べて売っていました。横に長い10間ほどの小屋は1間ごとに壁で区切り、それぞれ個別の商店として商売をしていました。

四条町復元模型
「四条町」復元模型/「市」が開かれている様子がわかる
出典・
引用:ひと・まち交流館 京都WEBサイト 京のまちづくり史セミナー講演資料

 

「大宿直(おおとのい)」と言う一大織物産業地域が平安末期から発展していましたが、応仁の乱で一旦離散してしまいます。そして応仁の乱の後、大宿直の北側で再び職人が集まり始め、これが現在の西陣のルーツとなりました。西陣と言う地名は、応仁の乱で山名宗全率いる西軍が陣を張ったことが由来しています。

このように、「住みこなし型街づくり」は、そうならざるを得ない事情が大いにあった状況がうかがえます。現代とは違い、その地を納める立場の人間たちは戦に忙しかったのですから、そこに暮らす人々は自分たちの都合で街を造っていくしか食べていく方法が無かったのは明らかですね。

 

現在の五条通は計画的変遷

五条大橋
五条大橋

現代の京都市内で大きな通りとして大量の交通量を誇る五条通りは、平安京の時代は今の松原通(六条坊門小路)の位置でした。豊臣秀吉が方広寺への参拝のため鴨川にかかる五条大橋を移設したのですが、その際秀吉は本来の五条通を縮小し、六条坊門小路を京で最も大きな通りに造り変えました。立派な参道にするためだったのでしょうか。それが現在でも国道1号となっている五条通として利用されているのです。

 

秀吉は他にも、意図的に京の街を造り変えました。応仁の乱での荒廃や室町幕府の衰退によって、平安の街づくりが不都合になった面もあったのでしょう。城など軍事拠点だけでなく庶民が暮らす市街地も丸ごと囲む防御施設を「総構(そうがまえ)」と言いますが、秀吉は京都版総構“御土居”として京の街を造り変えました。御土居の全長は自身の豊臣大阪城の3倍にもなりました。

京都は竹藪が多くありますが、これは御土居の防壁である土塁の上に土塁崩壊を防止するため高さ10m以上の竹藪を植林したためです。

御土居断面図
出典:京都市WEBサイト

そして御土居ができ、秀吉は公家や武士・町人などに対して身分別に洛中を割り振り、住み替えをさせました。当時は身分によって適用される法律が違ったため、行政管理や租税徴収をしやすくするためだと言われています。検地と言い、本当に効率的に物事を進める知恵に長けていたのですね。

 

ちなみに「洛中」「洛外」は、御土居の内と外としてこのころに明確化された概念です。

 

また秀吉は寺の配置も、宗派やパワーバランスなどによって様々に変えさせ、その配置は現在でもほぼ変わらないと言います。

これは町衆と寺院の結びつき・結束を分断し既得権益を弱める狙いと、寺院を市街地の外縁に集めて御土居に続く第2の防御機能にするためでした。寺院は敷地面積があり塀で囲まれているため、そこに兵を配置できるというわけです。

御土居図
御土居配置図
出典:京都市WEBサイト

 

まと・・・まらないが、まとめ

京都の歴史は深すぎてブログやコラム1回では到底まとまらないのですが、基本的に平安京をベースに豊臣秀吉の京の街づくりによってできた構造が現代も色濃く残っていると言えるため、このあたりで一旦〆ようと思います。

 

現在の京都が、何もなかった「山背国」に平安京が都市計画で造り上げられ「山城国」となってから、住民の暮らしに合わせた変化、応仁の乱による荒廃、秀吉の都市計画と、怒涛の歴史によって完成されてきたと言う事。近代の大戦争でもほとんど無傷で残された幸運も噛みしめながら、官民一体となって大切に街づくりを継続していきたいですね。

 

 

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